僕は、学生の頃2ヶ月ほどニュージーランドに語学留学をした。
語学留学ってかっこいい響きだけど、お金を払えば誰でもできる。
語学留学すれば、英語が話せるなんて思ってる人がいるけど決してそんなことはない。英語の上達具合は完全にその人次第。
でもここでの経験で、重要なことを体験することができた。ここでは英語の勉強を例に挙げているが、すべてのことに当てはまる。
意識してみてほしい。
勉強するための環境整備
僕は、ニュージーランドではホームステイをしていた。
その家庭には高校生の男の子と中学生の女の子がいた。そのくらいの年になると、日本と同じように向こうから絡んできてくれるようなことはあんまりない。
僕も全然何話しとるか分からんし、何を話せばいいかも分からんしで、1日に交わす言葉は挨拶くらいだった。
せっかく外国に来たんだからと、僕は英語の物語を借りてきてせっせと読んで家にいる時間の多くを使って勉強した。
今思い返すと「そんなことは富山でもできるんに。」と思うけど、「勉強せんにゃ向こうの国の誰とも話せん」という必要に迫られたから勉強できたのだと思う。
これは、テスト前しか勉強できんがと近い感覚かもしれない。
日本人が英語を真剣に勉強せんがは、別に話せなくても生活に差し支えがないからだ。数学も国語も英語も社会も、別に難しいことが分からんでも生活には何の差し支えもない。
本当に意志の強い人以外、人間は必要に迫られないと勉強をしない。
だから本当に何かをやりたい場合は、必要に迫られる工夫をした方がいい。
例えば数ヶ月後のテストに申し込んでしまうなどもいい。僕はその方法を使って、富山マラソンに申し込んで完走することができた。
授業の風景が富山とはまったく違う
ニュージーランドでの授業は、富山でやっていたものとは全く違った。
すごくうるさいのだ。ここの生徒達はインドネシアや中国、韓国、アラブ首長国連邦など様々なのだが、みんな分からないところがあったらすぐ質問する。
富山みたいに手を挙げて当てられるのを待ったり、みんなの勉強の邪魔になるからと授業が終わるまで質問を待ったりしない。
先生も休み時間は、「休み」なんだということで、基本的に質問を受けつけてくれない。
それが当たり前だから誰も不満は言わないし、先生たちはコーヒーなどを呑んで雑談をしてリラックスする時間を持つことができる。
先ほどの授業中の質問の話に戻るが、ニュージーランドでの授業では誰かが質問をしたら、授業をそこで止めてその質問に徹底的に答える。
そこには、誰かが分からないことを説明することは、その他の生徒のためにもなるという考え方がある。
自分では質問しなかったけど、同じところをよく分かっていなかった生徒は熱心に聞くし、分かっている生徒は自慢げに教えたりする。人に教えることで自分の理解も深まる。
富山の先生たちには授業計画があるので、実現は難しいかもしれない。しかしスケジュール通りに、「やることはやりました。後は自分たちで頑張ってください。」ってのも違うし、先生が休み時間や放課後も残ってクタクタになるまで頑張るのもなんだか違う気がする。
恥ずかしさが可能性を縛る
富山県民の可能性を縛っている要素のうちの1つ。
恥ずかしさ!
羞恥心は、もちろん大事な要素なんだけど、これが多くの可能性を縛りつけて殺している。
例えば先ほど授業中に手も上げずに質問しまくるといったが、日本人はそんな質問の仕方ができない。
自分が分かっていないことをみんなの前で公表することが恥ずかしいのだ。そもそも大勢の前で発言するのも恥ずかしい。休み時間なども恥ずかしくて、他の生徒たちに話しかけられない。
すぐ横に自分とは全く違う考え方を持っている人がいて、ちょっと勇気を出せば面白い話が聞けるのに、恥ずかしくて話しかけられない。
めちゃくちゃもったいない。
恥ずかしいというのは誰もが持つ感情だが、はっきり言って周りの人間は、それほどあなたに興味がない。
僕は大学で初めて、富山暮らしから東京暮らしに変わったとき、自分の服が富山っぽくてダサいんじゃないか、富山弁が田舎臭くて馬鹿にされるんじゃないか、と心配した。外を歩いていても「みんな富山の田舎者の自分のことを笑ってるんじゃないか?」と、とても恥ずかしかった。
でも立場を置き換えてみれば分かるけど、今日すれ違った人の服なんてはっきり言って1つも覚えていない。自分が超有名人ならいざ知らず、ただの一般人である限り、ほとんど意識なんてされない。
たとえ笑われたとしても一瞬だし、それによって自分の心がちょっと傷つくだけで、お金が減ったり、怪我をしたりするわけでもない。
何か新しいことに挑戦するときもそうだが、「失敗したらどうしよう、恥ずかしい」なんて思うが、自分で思っているほど周りの人は意識していない。
たかが一般人が何かで失敗して程度で、yahooニュースで炎上してマスコミに叩かれるなんてこともない。
「恥ずかしさ」を一旦捨て去れば、めちゃくちゃに可能性は広がるのだ。
間違った完璧主義が進化を遅らせる
富山県民の可能性を縛っている要素の残りの1つ。
完璧主義!
完璧主義は、もちろん大事な要素なんだけど、これが多くの可能性を縛りつけて殺している。
ニュージーランドの語学留学に行って、日本人以外はすごく英語を話していることにビックリした。
入学時にテストがあってクラス分けをされるのだが、僕は中級クラスだった。にも関わらず、初級クラスの生徒たちが休み時間にバンバン英語を話しているのだ。
なんだ、これ?
この人達みんな英語話せるんやん!なんて思った。
しばらくして、英語に慣れてようやく聞き取れるようになると、文法などがほめちゃくちゃな英語だと気づく。
彼らは分からなくても間違っていても、とにかく話すのだ。口から英語を発するのだ。
富山県民を含む日本人は、完璧になるまで話さない。
これは間違っていたら「恥ずかしい」ということもあるのだと思うが、間違った完璧主義になってしまっている。
何かに挑戦するときに、1回目から最高の結果じゃないとダメだと思い込んでいるのだ。
これは、本当にいつからそうなったのか分からないのだが、いつの間にかそんな間違った完璧主義者になっていたりする。
こうなってしまうと上達のスピードが劇的に落ちる。
例えば赤ちゃんは、ずっと黙っていて突然「おー、ようやく話せる。」なんて喋り出すだろうか?
「あー」とか「うー」とか何言ってるか分かんない言葉を常に発していて、たまに「ママ」になっていたら喜ばれて、そんな風にして少しずつ言葉を覚えていく。
ずっと勉強していて、突然「完璧なレベルに達した!」ではなくて、少しずつ少しずつ上達していくのだ。
だから、何かを上達させたかったらとにかく色んなところで、チャレンジと失敗を繰り返せばいい。
企画の立ち上げなんかもとりあえず始めてしまえばいい。もし失敗したら、失敗した理由を考えて今度はもうちょっと違った形で、成功するまで続ければいい。
間違った完璧主義者になってしまうと、本当に無駄な時間を過ごすことになる。
「百聞は一見にしかず」ということわざも、ずっと前からそれを教えている。
まとめ
箇条書きにしてみた!
- 自分自身を「必要に迫られる環境」に置くことが大事
- 授業のあり方、先生の休憩時間の考え方が学びを変える
- 「恥ずかしさ」を一旦取り去ることが、自分の可能性を広げる
- 「間違った完璧主義」をやめること、早く力をつけるには失敗しながら
赤ちゃんは急に話せるようにならないし、急に歩けるようにもならない。
何回も転んで足に筋肉をつけ、バランス感覚を身体に覚えさせ、フラフラになりながらまずは立てるようになり、その後歩けるようになる。
そのフラフラの状態を笑う人間がいるだろうか?もし笑う人間がいたら、あなたはそんな人間をどう思うだろうか?
富山県民から、「恥ずかしさ」と「間違った完璧主義」を取り払えば、どんどん挑戦者が現れて、どんどん失敗が起こって、その分どんどん成功が起こる。そしてどんどん富山が面白くなる。