「まちづくり」「地方創生」「地域活性化」「地域創生」「地域おこし」「町内会」「自治会」
このような活動に関わっている方なら、一度は感じたことがあるかもしれない。
みんなにとって確実に良いことなのに、どうしても実行できないジレンマ…
簡単にできそうなのに、みんなにとってプラスのことなのに、なぜ達成できないのか?その不思議な問題に深く関係のある「オルソン問題」と「フリーライダー問題」。
2017年1月14日、富山市立図書館(TOYAMAキラリ)で行われた「まちづくりセミナー2017」(GPネットワーク)。京都市まちづくりアドバイザー谷亮治さんの講演を聞いて自分なりに思った、その不思議な問題と葛藤についてまとめてみた。
まちづくりとは
まずは、まちづくりについて整理してみる。
今となっては誰しもが口にするようになった「まちづくり」という言葉。なんとなく意味がわかるけど、具体的にないをするのかはよく分からない。
それについては以前『地方創生、地域活性化、地域創生って結局どういうことなの?』でもちょっと触れた。
今回のまちづくりセミナーでは、谷亮治さんは次のように「まちづくり」を定義した。
まちづくり
まち(の人なら誰でも使える公共財)づくり
ここで出てくる「公共財」の意味がよく分からないが、次のような意味だ。
公共財
「非排除性」と「非競合性」のいずれか一方を備える財
またまたよく分からない言葉が2つ。
非排除性
利用者を選択的に排除できない性質
非競合性
誰かが使ってもなくならずに利用出来るという性質
ちょっと複雑になってきたので、1回整理する。
すごくざっくりまとめると「まちづくり」とは次のように言える。
まちづくり
どんな人でもいつでも自由に使える財を作ること
この考え方がすごく重要になってくるので、理解しておこう。
みんなで公共財を作るまちづくり
今まで説明した考え方を元に「雪が30センチ積もった冬のある日、中学生の少年Aが町の道路を除雪している」ということについて考えてみる。
町内の道路は、町内の人もそうでない人も、どんな人でも利用することができるので、非排除性があると言える。
さらに誰かが使ったからといって、他の人が使えなくなるものでもないので、非競合性もある。
町内の道路が除雪されれば、みんながスムースに歩くことができる。転んで怪我するリスクも減るので、これは財だと言える。
つまり少年Aが行っている行為は、立派なまちづくりだ。
こんな少年がいれば、その町内にとってはいいことしかないように思える。しかしちょっとした要素が加わると問題が生じてくる。
まちづくりとビジネスの違い
問題の話に行く前に、まちづくりとビジネスの違いについて少し書いておく。
まちづくりの説明をしてきたが、今回のセミナーの定義づけで考えると、「まちづくり」とビジネスとは大きく異なることが分かる。
なぜならビジネスは、排除性を持っているからだ。
つまり、お金を払った人は何かしらの利益を得ることができるけど、そうでない人は利益を得られない。
まちづくりと違って、ビジネスは誰しもがいつでも自由に使えるものではないのだ。
この違いは気づかないうちに混同しがちで、さらに大きな問題につながることになる。
オルソン問題とフリーライダー問題
毎朝雪かきをしてくれる少年Aのいる町に、これからどんなことが起こるのだろうか?
今まで特に何も考えずに雪かきをしていた少年A。町内のみんなが「ありがとう、助かるわぁ」と声をかけていく。
そこへ近所の若者Cが現れて話しかけた。
「A、えらいなぁ。にいちゃんも見習わんなんなぁ。毎日大変やろ?」
「いいえ特には。」
「こんな大変なこと毎日Aにだけやらせとるんは、にいちゃん気がひけるわ。町内のことなんだから当番制にしてみんなで交代でやろう。」
町内のみんなが集まる町内会で、その若者Cが「雪が降って大変だから、Aに任せっきりにするんじゃなく、みんなで交代制で雪かきをやりましょう!」
みんな快く協力してくれると思っていた若者Cだったが、町内の大人からは予想もしなかった言葉がたくさん返ってきた。
「Aが勝手にやっとることだから、わしゃ知らん。」「毎日仕事に行かんとダメやから無理」「腰が痛くて無理」「誰も頼んでない」
今までは特に何も考えずに除雪をしていた少年Aだったが、こんな大人たちを見て一気に気持ちが冷めてしまった。
みんな「いつもありがとう、助かる」なんて言ってるのに、自分たちでは少しもやろうとしないんや…。そんな人たちのために自分だけが何かやるなんてバカらしくなってきた。もうやめよう…。
次の日から、Aは除雪しなくなった。町の人たちは、毎朝自分たちで大変な思いで除雪をしている。高齢者の家の前にはずっと雪が積もったままだ。
ちょっと大げさに脚色しているが、似たような状況に陥ったことはないだろうか?
これがいわゆるオルソン問題とフリーライダー問題だ。
オルソン問題
「作れればみんなが幸せになる財なのにも関わらず、誰も作れない」というジレンマのこと
フリーライダー問題
フリーライダー(タダ乗り)する人、つまり対価を払わずに利益だけを得ようとする人への不満・不納得感から、せっかくの財が供給できなくなること
少年Aが町内の除雪をすることで町のみんなは利益を得ていたが、その対価は誰も払わなかった。タダ乗りだったから感謝をしていただけだった。
そのフリーライダー達に嫌気がさして、Aは除雪をやめてしまった。
町内は、Aの除雪という財を失ってしまった…。
必要とされることの不幸
少年Aのような人物は、周りの人から必要とされ、あれこれ頼まれる。
なぜなら無料、もしくは格安で、自分の頼みごとを聞いてくれるからだ。自分の利益になる人物だからだ。
ここでビジネスとまちづくりの違いが出てくる。
ビジネスにおいて人に必要とされると、それは「お金」となって自分に入ってくる。必要とされ働いた分だけ、大変な思いをした分だけ儲かる。
しかし、まちづくりの場合だとそうはいかないことが多い。フリーライダー、つまり対価を払う気がない人にモテてしまうと、どんなに大変な思いをしても自分には「お金」は全く入ってこない。
これはもしかすると、すごく不幸なことかもしれない。フリーライダーに貪り尽くされて、用無しになったらポイってやつだ。
オルソン問題とフリーライダー問題解決方法
でも世の中には、上手くまちづくりを続けている人がいる。まちづくり成功者たちがいる。
その成功者たちは、どのようにして「まちづくり」を継続しているのだろうか?
価値観のリセット
資本主義の日本において「お金」の影響力は絶大だ。
「お金」は信頼の量だとか、人からの感謝の量だとか言われている、とても便利な存在だ。
だが「お金」を稼いでいる人を見ると、どうしても妬んでしまう傾向がどうも日本人にはあるようだ。「お金」は欲しいのに、それを極力表に出さないようにし、「お金」をまるで汚いもののように扱うふりをする。
僕もそうなのだが、上手くお金を稼ぐ人をなぜか嫉ましく思う心がどこかにある。
その人は自分には全く関係のない人だったり、すごく頑張っている人だったりするのにだ。本当にこの気持ちはよく分からない。
それは生物の本能ではないので、日本の教育によって出来上がってしまったものなのだが、その価値観をなんとかしないと、オルソン問題とフリーライダー問題の根本的な解決にはならない。
長年植えつけられた思想なので、絶対に簡単にはなくならない。しかし、例えば何かしらの利益を得たらなるべくその代金、もしくは他の対価を支払うような心がまえだけは持っておきたい。
「自分だけがよければいい、自分の身内だけがよければいい」という心はもしかしたら本能なのかもしれないが、広く長い目で見ると少年Aの町内の事例のように、みんなで上がっていく方が最終的に自分の利益につながることが結構ある。
人口減少とともに「なんとか自分だけは」というだけでは、なかなかどうにもならないようになってきているのを、どこかで感じているのではないだろうか?
自分の好きなことをする
価値観のリセットはいわば理想であり、一石二鳥ではどうにもならないと思っている。
ではオルソン問題とフリーライダー問題は、もうどうにもならないのかというとそうではない。「まちづくり」の成功者たちは、そもそもの考え方が違う。「お金」にとらわれないのだ。
どういうことかというと、フリーライダーへの不満や不納得感を許容してしまうのだ。
例えば少年Aの事例でいうと、実は少年Aは全国大会優勝を目指す柔道部員だ。全国大会で優勝するには並大抵のトレーニングでは無理だ。
そこで考えたのが、除雪トレーニングだった。毎朝町内の除雪は、学校へ行く前にできるし、すごい力がつくので少年Aにとっては一番手頃にできるトレーニングだ。
自分のトレーニングをやっていたら、なぜか近所の人たちが「えらいねぇ」「ありがとう」なんて声をかけてくれるようになった。
自分のためにトレージングをしているだけなのに、みんなに褒められるから気持ちがいい。
少年Aにとっては、対価を払わずに除雪による利益を無料で得ているフリーライダーなんて、どうでもいいのだ。
「誰かのために」「自分だけがこんなにやってる」なんて想いで物事を始めると、どうしてもフリーライダーへの不満や不納得感に取り込まれてしまうことになる。
「自分がやりたいからやっている」という状態が、最強の状態なのだ。
お金の使い方の満足度の違い
お金の話が出てきたので、今日聞いたちょっと面白かったお金の使い道について少し書き記しておく。
お金の使い方は、実は次の2種類に分けられる。
・消費的使用
・投資的使用
ざっくりいうと、自分の欲しかったゲームを買うのが消費的使用で、大切な人のためにプレゼントを買うのが投資的使用だ。
この2種類のお金の使い方、得られる満足度が全然違うそうだ。
消費的使用は、使ってすぐに満足度が急上昇するがすぐ落ちる。それに対して投資的使用は、急上昇はしないがじわじわと満足度が上がっていくのだ。
どうだろう?このような満足度の変化を感じたことはないだろうか?
欲しかったゲームを買った瞬間に何か熱が冷めてしまったという経験は僕にはある。大切な人のためにプレゼントをあげたら、喜んでくれたこともそうだが、そのような行為をした自分に対して何だか嬉しくなってきたという経験もある。
少し言葉は違うが、飲み会や買い物などの受動的な喜びは長続きしない、自分たちで何か物事を行う能動的な喜びは長続きすると、『コミュニティデザイナーの山崎亮さんの講演会』でも聞いたなぁ。
まとめ
オルソン問題とフリーライダー問題。
自分的には結構悩んでいた部分であり、とても面白い問題だと思ってとても惹かれた。
「使われない公民館」や「使いにくすぎる県や市の税金で出来た施設やサービス」など、この問題を実感することが多すぎる。
一人ではできないことをやるために人は集まって、一人ではできないことをやるために、税金というお金を出している。そのはずなのに、「それは全員のためにならない」って理由で、誰のためにもならないお金の使われ方をしたりする。
100%の人間に支持されることなんて100%ないのに、1%の批判や反対を恐れて何もできない。人間らしくてとても面白い。
誰に何を言われようと自分が思ったことを貫いていかないと、何の行動も起こせない風潮がどんどん強くなっている気がする。
1500円払って、自分が今日学んだことを5000文字以上書いても全くお金にならないw
それでも自分が興味があることで、調べていて面白いから調べる。文字にして書き起こすことで、今日体験したことの理解度が多少深まるから書く。
お金以外の何かしらのメリットがあるから、やっている。
この記事がすごく役に立ったから、「自分の得た分の利益の対価を何かしらの形で支払いたい」という人が、もしいたなら『問い合わせ』からご連絡をお待ちしております(笑)